遠く北の北海道で水揚げされる昆布が、大阪の名産品になりえたのは、 近世の海路を利用した流通網にあります 。 近世大坂は「天下の台所」と呼ばれ全国物資の集散地であり、特権商人の経済活動の中心地でした。 「出船千艘・入船千艘」と称され、大坂の富の70%は海上の船中にあり、海上を軸とした流通網で物資が大坂に運び込まれました。
大阪 塩昆布 なぜ?
なぜ大阪 に 昆布 屋が多いの? 大阪 は、古くから物流の中心地として栄えてきました。 昆布 の場合は、日本海を通る「北前船航路」を使って北海道の南端から北陸に入り、内陸を通って 大阪 まで運ばれていたそうです。
西廻り航路なぜ大阪?
加賀藩 かがはん によって開かれ,1672年に 河村瑞賢 かわむらずいけん が 整備 せいび ,これによって日本海 沿岸各地 えんがんかくち の米や 産物 さんぶつ が 大阪 おおさか に運ばれた。
昆布の歴史は?
昆布 の由来は、アイヌ民族が「コンプ」と呼び、これが中国に渡り、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われる説が有力です。 昆布 と思われる海藻は奈良時代の書物「続日本紀」に初めて登場し、 昆布 が朝廷に献上されたと記録されています。 昆布 は語呂が「よろこぶ」に通じ、「養老 昆布 」という文字をあてたと言われています。
塩昆布の起源は?
1949年、山本利助が 昆布 を煮詰めて、 塩 やグルタミン酸を浮き出させる 塩 吹きタイプの 塩昆布 を発明した。
大阪佃煮の再利用は?
大阪 市中央区の老舗つくだ煮店「神宗」が、2年前に製造して冷凍保存していた塩昆布やちりめんさんしょうなどの製品を 再利用 し、新たな原材料と混ぜて販売していたことが8日、 大阪 市保健所への取材で分かった。
昆布の発祥の地は?
昆布 加工品の原点である青刻 昆布 の主産地大阪における創始は一七二一年(享保六年)頃と伝えられる。 文化年間に清国(中国)に試売し,一八二〇年頃から販路を拡張,専ら大阪上町台地において製造していた。 一九〇〇年(明治三十三年)には,大阪の刻 昆布 が国の重要物産品に指定されている。
北前船 誰が作った?
それが 北前船 ですが、そのきっかけとして、航路の整備が見逃せません。 幕府は寛文12年(1672)、江戸の商人・河村瑞賢に、最上川流域にあっ た 15万石の天領(幕府の領地)の米を、河口の酒田から江戸まで運ぶ航路の整備を命じまし た 。
なぜ大阪が物資の集散地なのか?
第1に、瀬戸内海を利用した大坂への 物資 輸送は、沿海航路に比較して安全であり、 か つ輸送日数が短かったため、大坂は 物資 の集散に適していた。 第2に、大坂とその周辺は、 河川と内陸の舟運が発達していた。 特に淀川は、中世から重要 な 交通路だった。
南海路の読み方は?
また、大坂と江戸を往復する航路は 南海路 (なんかいろ)と呼ばれました。 この 南海路 で使われた船の種類としては、大型の 菱垣廻船 (ひがきかいせん)、小型の 樽廻船 (たるかいせん)がありました。
昆布ロード 誰が運んだ?
では、 誰が昆布 をこれらの地域に 運んだ のか。 実は「越中富山の薬売り」で有名な越中商人たちです。 彼らは幕末に、北前船で運ばれた 昆布 をルートから外れた薩摩藩に持ち込み、それが琉球経由で入ってくる清国産の漢方薬の原料と交換する貿易に使われていたそうです。
なぜ昆布の取れない地域で昆布料理が生まれたのか?
昆布 の採れ ない 富山県で、 なぜ 食されている のか 。 それは江戸時代、富山県域が 昆布 をはじめとする海産物を運んだ海上流通の中継地を多く擁してい た ことに端を発する。 同じく 昆布 が生息しない沖縄(琉球)でも食されているのは、富山藩の商人たちが薩摩藩に 昆布 を持ち込んでいたからだ。
昆布の食文化は?
こんぶ ロードがのびて新しい土地に 昆布 がもたらされると、そこに独自の 昆布食文化 が生まれました。 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。 関東地方は こんぶ ロードの到達がおそかったため、全国的に見て 昆布 の消費量が少ない地域となっています。
富山県 昆布 なぜ?
明治時代になると、 富山 県民の北海道移住や漁業出稼ぎが始まり、北海道周辺漁場の 昆布 漁は彼らによって開拓されたといわれている。 昆布 の産地である羅臼(らうす)町への移住が多く、移住・漁業出稼者がふるさとに 昆布 を送ったため、現在でも 富山 で一番多く消費されるのは羅臼 昆布 であり人気が高い。
なぜ沖縄昆布?
薩摩藩は江戸時代の初めに琉球(現在の 沖縄 )を勢力下に入れました。 そして、中国が欲しがる 昆布 を、琉球を経由して輸出して巨万の富を手に入れます。 そのため、 沖縄 は江戸時代、 昆布 の流通の一大基地となった訳で、そのことが 沖縄 での 昆布 消費量を大きくする原因となりました。
えびすめの意味は?
「 えびすめ 」は古い日本語で’昆布’を 意味 します。 選び抜いた道南産真昆布の中央の肉厚の部分だけを贅沢に使い、丹念に炊きこんで乾燥させることで、滋味あふれる独自の味わいを生み出しました。
甘露煮の語源は?
甘露煮 の由来 「 甘露煮 」の 語源 である「甘露」とは中国古来の伝説で、天から降る甘い不老不死の霊薬のことです。 またそれに似た話で、インドにも飢えを満たし、渇きを癒し、長寿をもたらし、死者をも蘇らせる甘い蜜のような霊薬の伝説があります。
甘露煮 なぜできた?
実は 甘露煮 の由来は、中国とインドにあります。 中国の古い伝説には、「甘露」という天から降る甘い不老不死の霊薬があり、一方インドには飢えを満たし て 渇きを癒し、長寿をもたらし て 死者をも蘇らせるという蜜のような甘い霊薬の伝説があります。 この2つが合わさり、日本に伝わっ た ものが 甘露煮 の語源です。
佃煮のルーツは?
さて、江戸時代に佃島でその名を冠し誕生した 佃煮 ですが、実は江戸幕府初代将軍・徳川家康にゆかりのある食べ物。 徳川家康のおかげで 佃煮 が普及したともされています。 そもそも「佃島」という名前は、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)からいただいたものなのです。
昆布ロード なぜ?
昆布 は宮城県以北の寒い海でしか採れないので、他の地方へ 昆布 がもたらされるには、北から南西への輸送ルートが形成されます。 昔は陸路がなく、あったとしても、とても危険でした。 このため、古くから海路が発達しました。 海路が開けていたのは日本海側で、太平洋側は波が高く、航路が開かれたのは江戸時代に入ってからです。
沖縄の昆布の歴史は?
18世紀末には、北前船によって蝦夷地から日本海を通って大坂に運ばれた 昆布 を、薩摩商人が砂糖とかえ、さらにその 昆布 を琉球の進貢貿易を利用して中国に輸出するようになりました。 中国からはそれとひきかえに、生糸・反物・漢方薬の材料などを買い入れています。
沖縄の昆布消費量は?
こんぶの消費量の都道府県ランキング(平成26年)
都道府県 | 数量 | |
---|---|---|
44 | 大分県 | 50.0g |
45 | 宮崎県 | 54.8g |
46 | 鹿児島県 | 41.5g |
47 | 沖縄 県 | 64.7g |
関西 昆布 なぜ?
一方、 関西 が 昆布 だしなのは、北前船で生産地の北海道と消費地の京都・大阪を結ぶ「 昆布 の道」があったからというのが理由のひとつ。 航路として立ち寄る日本海側の港町にも 昆布 を利用した多様な和食が生まれたそうです。
神宗 なんて読む?
神宗 (かんそう)を代表する佃煮や季節の美味しさがあふれる商品をご案内いたします。